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2010年8月

2010/08/25

秋山 庄太郎

 広告写真を志したぼくは、写真学校を卒業後、写真家 小川 嘉範の個人アシスタントに就いた。

小川先生は、秋山(庄太郎)スタジオ出身の藤井 秀樹氏や一色 一成氏と並ぶ直弟子のひとりで、ぼくはあの秋山庄太郎の弟子の弟子、つまり孫弟子にあたると言うのがちょっと自慢だった。

ぼくは先生の孫なんです、と言うぼくに「あんまり脅かすんじゃないよ。」とおっしゃった。・・・思い当たるふしがあったに違いない。

 小川 先生のスタジオ「BROOK」に、山本陽子や関根恵子など有名な大女優、当時売れっ子モデルだったハニー・レーヌやエルザがやって来るたびにぼくはワクワクしていた。

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2010/08/18

1975年

 中山の誘いに乗ったぼくがジャズを撮り始めたのは1975年(24歳の秋)。しかし、ちょうどその年2月の来日を最後に、マイルスはなんと6年間にわたる沈黙の世界に入っていたのだった。

 胃潰瘍・肺炎といった病気や声帯・足の関節の手術などのために入退院を繰り返しながら、自宅での療養を続け、聴衆の前での演奏活動を中止していた時期にあたる。

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2010/08/11

ジャズへの誘い

 「ジャズを撮ってみないか?」
 そんなイカした誘いの声をかけてくれたのは中山 康樹。ぼくと同じ大阪出身のジャズ馬鹿で、マイルスのアルバム名をパクった「クッキン」と言うショボい同人誌をワラ半紙に謄写版刷りで作っていたマイルスキチでもあった。

 東京の写真学校に進学したぼくに2〜3年遅れて、スイングジャーナルに採用された中山が上京。大阪時代に共通の溜まり場となっていたジャズ喫茶「ムルソー」で顔を合わせていたぼくが東京にいて、カメラマンを志していると言うことで「ジャズへの誘い」となった、1975年のこと。

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現在は北新地に5店舗を数えるまでになった「ムルソー」 
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← 1号店は1969年(昭和44年)大阪の京阪森小路に開店した
     高校生だったぼくが常連だった頃 懐かしい開店当初のマッチ箱

そしてその約10年後にマイルスを撮る夢が実現した
その証 ↑ Meursault "2nd Club"にプレゼントしたマイルスの写真パネル

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