10月2日
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1981年9月30日 ホテルで開かれた記者会見には200人以上のマスコミ関係者が詰めかけたが、大方の予想通りマイルスは姿を見せなかった。席に着いたのはマイク・スターン以外の4人のメンバーの他にマネージャーのとクリス・マーフィー(左)とジェームス・ローズ(2人目)。 報道陣の相次ぐ質問に閉口してアル・フォスターが「スイング・ジャーナルを読んでくれ。」と笑いを誘った。
マイルスは終日4033号室を出ることはなく、「マイルスは大丈夫か?」「本当にラッパを吹けるのか?」・・・ささやきが方々から聞こえた。 ロビーで待ち続けるぼくの出る幕はぜんぜん無かった。
月明けて10月1日 NHK内のスタジオ509で行われたリハーサルには、アタマッからマスコミ・シャットアウト。台風22号が接近して午後から雨になった・・・ 翌日からのコンサートは大丈夫だろうか・・・
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ぼくの親父ははかつて読売新聞社の社会部記者兼カメラマンで、ぼくが写真学校を卒業する時、父親としては息子をその大新聞社に入れたかったらしい。「あの時、親の意見を聞いてれば、売れないフリーカメラマンで苦労してないで、とっくに立派なデスクだったぞ。」といまだにコボしている。
記者の世界では下についた助手や見習いを「コドモ」と呼ぶのが慣例だったらしい。現役時代の親父に大阪読売で「コドモー!」と呼ばれていたのは、この時のスイングジャーナル編集長=児山 紀芳。そのむかし親父にコドモと呼ばれた児山編集長の元で本物の子供がまたコドモと呼ばれている、なんとも奇遇!
二人の乗ったリムジンを追ってホテルへ向かうが追いつけずにその日は終わった。 滞在中も連日京王プラザ・ホテルのロビーで待ち伏せを試みたが、マイルスは4033号室を一歩も出る気配はなく、ロビーに降りてくる来ることはなかった。
僕は何とかして、マイルスのオフ・ステージの写真をたくさん撮りたかった。
1981年9月29日、こうしてぼくは初めてマイルス・デイヴィスに会った。そして・・・マイルスの訃報を聞いた1991年・・・10年の時を隔てたその日付はピッタリ一致する9月29日(命日は28日)
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ぼく達は階下の出口に急いだ。何人もの記者とカメラマンが待ち構えるゲートに現れたのは係官とではなく、彼女の精神的な支えがこの復帰に大きな役割を果たしたと言われる、女優のシシリー・タイソンとその手をとった笑顔のマイルス・デイヴィスだった。
一行はマネージャ、エンジニア、ローディーを含め総勢十数名。到着1時間後に姿を見せたバンド・メンバーに遅れること更に1時間。シシリーの手を取って時折笑みを浮かべながら空港ロビーに現れたマイルスを、ぼくを含めて十数人のカメラマンと報道陣が出迎えた。ゆっくり出口に向かうマイルスに容赦なくフラッシュが浴びせられて、いつしかその表情から笑顔が消えていた。 ぼくもマイルスの笑顔を消した原因に加わっていたのだ。
出迎えの誰かから花束を手渡されてもマイルスは無表情で、くわえたタバコに火を付けただけでただリムジンに向かってゆっくりと歩き続けた。
「帝王」を間近に撮らえるチャンスに興奮して、ぼくも一介の報道カメラマンに成り下がっていたのだ。(1981年9月29日)
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