中山康樹 「マイルスを撮れ!」
大阪の町外れに「ムルソー」というジャズ喫茶があって・・・ジャズなどど~でもいいぼく19歳のロック少年がジャニスかけろ、ジミヘンかけろと我が物顔でたむろしていた。
ハタチになって東京の写真学校に行くため上京した後、その店にたむろし始めたのがナカヤマだった。一度ぐらいは遭遇したかも知れないが言葉を交わした事はなかった。マイルスがビッチェズ・ブリューを出した1970年頃の話。
ぼくは卒業して写真界のボス秋山庄太郎門下で修行中・・・ナカヤマはぼくより数年遅れて上京、スイングジャーナル社に入社して、もうすっかり東京言葉をしゃべるようになっていたぼくに、コテコテの大阪弁で「ウチヤマくん、ジャズ撮って見ぇへんか!?」と、マイルスがアガ-パンを出した1975年の話。
ぼくはファッションやコマーシャルの華やかな世界を捨て、ナカヤマの誘いにまんまと乗って暗いジャズの世界に飛び込んでしまった。
以来ナカヤマは同郷のよしみか大阪弁で話が通じるからか、コンサートやレコーディングやインタビューやらにぼくを多用した。特に'80年代にはたびたびニューヨーク中を引きずり回して、1コ年下のくせにことごとくぼくをコキ使ってくれたのだった。
上下利害関係のない頃からの知り合いだから、使われの身の小カメラマンが大出版社の編集者(後に編集長)に向かって反抗的態度で、時には「アホかお前は!」とやり合ったりするのを見た(大出版社にゴマをする立場の)事情を知らない人たちはハラハラしたに違いない。
1981年にマイルスが復活した時、ナカヤマはぼくに「マイルスを撮れ!撮ってこい!」と命令した。以来ぼくはマイルスを死ぬまで追いかける事になり、おかげでマイルスに一番近づいたフォトグラファーと言われるようになった。
40年前に「ムルソー」でナカヤマに会っていなかったら、ぼくはマイルスを撮っていない。あの時ナカヤマの「ジャズ撮って見ぇへんか!?」の誘いが無かったら、ぼくはファッション・カメラマンとしてもぉちょっとマシな人生を送って来たかも知れないが。(まぁええか)
最初に会ってから40年の時が流れてお互い歳をとった。ナカヤマの還暦祝いのスピーチで、ニューヨークでの悪事のひとつもバクロしてあの頃コキ使われたウラミを晴らしてやろうかと思ったが、思いとどめた。
ぼくをマイルスに一番近づかせたのはナカヤマだから、ちょっとは感謝している。還暦オメデトォ!
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