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2017年12月

2017/12/27

#0059 1975年12月17日 中村誠一 黄金虫

第1期山下洋輔トリオを脱退して 1978年に渡米するまでの時期に 中村はこんなグループでも活動した

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黄金虫:板橋文夫(p) 今村祐司(perc) 成重幸紀(b) 中村誠一(ts,ss) 楠本卓司(ds) @PIT INN

幼少時は映画俳優を目指していたが 気がついたらジャズ・ミュージシャンになっていた ’67年に山下洋輔トリオの一員となりプロ活動を開始〜以降4年間にわたって山下トリオで活躍 エキサイティングなプレイは狂信的なファンを生んだ

’72年 トリオを脱退後 小原哲次郎(ds)と組んで 駄洒落と落語の要素をジャズに取り入れたグループ:ゲス・マイ・ファインズを結成 その時を機にフリーからオーソドックスなスタイルへと転向して 同グループや自己のトリオで 味わい深いテナー奏者として活動 この頃(1975年)オウゴンチュウを結成した。

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2017/12/08

#0057 1975年12月17日 森山浩二

1975年12月11日 森山浩二 山本3 TBM REC
ヴォーカリストでパーカッショニスト:森山浩二の記念すべき初リーダーアルバムの録音に付き合った
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1970年代 ジャズ・ライブは活況だったけど なかなかレコーディングの機会に恵まれなかったミュージシャンを起用して 日本のジャズ・シーンに良質のレコードを送り出したのが “TBM”の略称で呼ばれた「スリー・ブラインド・マイス」だった

TBMのレコードは高音質で 愛好家の間で高価格で取引されるほど人気があり 多くの作品がCD化されて再発売されたが この時の録音:森山浩二「Night And Day」もその1枚 サポートは 山本剛(p) 井野信義(b) 小原哲次郎(ds) メンバーの後ろに写っているのは TBM社長:藤井武氏 @アオイスタジオ

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#0056 1975年12月17日 藤岡琢也

藤岡琢也プロデュース
ホームドラマ『渡る世間は鬼ばかり』で「おかくら」の主人 日本の父親像を演じた藤岡さんは トロンボーンをはじめいろんな楽器を演奏し 収集したレコードも数え切れないほど 自らコンサートを開くほどのジャズ愛好家でもあった

このレコーディングは 岡倉大吉・・・じゃなくて藤岡琢也プロデュースでメンバーはこの日 青山ビクタースタジオに集められた(この時点1975年には まだ「渡鬼」は始まっていなかった)
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左から 中村誠一(ts) 松本英彦(ts) 中山正治(ds) 原田政長(b) 八代一夫(p) 右端が まだ岡倉大吉になる前の藤岡琢也

藤岡氏は2006年 都内の病院で亡くなったが 葬儀の式場にはピアノが置かれて 生前から氏と長く深い親交のあったピアニスト:岸ミツアキが奏でる調べの中を多くの弔問者が最後のお別れをした

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#0054 1975年12月15日 石川昌

石川昌 カウント・バッファロー REC
子供向けのTV番組で 子ども達と笑顔で遊ぶ 長身で色黒の“石川のおじさん”の記憶がかすかにある

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松本伸や宮沢昭のグループに参加した後 宮間利之とニューハードのドラマーとして 後に自らのバンド:カウント・バッファローを率いて活躍

アフリカに造詣が深く 後年には一家でケニアに移住して 2002年に現地で亡くなった

写真は 翌年(1976年)リリースされるアルバム「エマージェンシー」レコーディングのために 東芝スタジオに集合したカウント・バッファローのメンバー(皆んな若いねぇ・・・どれが誰だか分かる?)

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2017/12/07

#0051 1975年12月9日 原信夫と ♯&♭

1975年12月9日 原信夫 ♯&♭ オリバー・ネルソン追悼コンサート
芸術祭優秀賞(1983年) 紫綬褒章(1988年) 勲四等旭日小綬章(1998年) 第38回日本レコード大賞功労賞(1996年)・・・1950年に参加したバンドを 後に改名したシャープス&フラッツを率いて音楽界に多大な貢献をし数々の栄光を得た原信夫氏

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1963年からNHK紅白歌合戦の伴奏を長きにわたって担当した他 多くの有名ミュージシャンとの共演 江利チエミ 美空ひばりとも共演やレコーディングを残している

この写真は信夫氏49歳 同年(1975年10月)亡くなった作編曲家でサックス奏者 ♯&♭のために編曲を多く提供した オリバー・ネルソンを偲んでの VAN 99HALL で行われたコンサートだった 

半世紀以上も第一線で活躍した 原信夫とシャープス&フラッツは 原氏の高齢を理由に 2010年のコンサートを最後に音楽活動に終止符を打ったが 我がJazz & Cafe Whisper にもたびたび出演いただくご子息 ギターリスト原とも也によると 91歳の今も元気でおられるとの事 何よりです

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#0050 1975年12月4日 富樫雅彦

富樫雅彦 風の遺した物語
結婚情報誌「結婚ピア」の依頼で 千鳥ヶ淵の結婚式場を訪ねた

19751204_0050d3 皇居に近いことから「ザ ハウス パレスサイド」と言う名の洒落た洋館一軒家の式場には ブライダル・プロデュースの事務所があって そこに冨樫光明と言う男がいた

披露宴の司会を担当する富樫さんが 富樫雅彦の甥っ子だとわかって僕らは意気投合 この会場での写真撮影を一手に引き受ける事になった

僕がジャズを取り始めたこの頃から ’80年代いっぱいまで活況だったジャズの世界も バブルがはじけてジャズだけでは食えなくなった時代に 僕が婚礼写真を糧にカメラマンとして生き延びる事が出来たのは この時 富樫雅彦の甥っ子さん光明氏に出会った事が幸いだったと今も感謝している

光明氏はその後プロレスのリングアナウンサーとして有名になり現在も活躍中

富樫雅彦が遺した もうひとつの(僕と甥っ子さんの)物語に終始してしまったけど 雅彦さんには この後もたびたび会う事になるので 雅彦物語は次の機会に・・・

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2017/12/06

#0049 1975年11月29日 スティーブ・グロスマン

ほとばしる激情 圧倒的な音圧 ばく進する重戦車のごとき推進力 とタワレコのブログで紹介されている

19751129_0049e6 18歳でウエイン・ショーターの後任としてマイルス・グループに参加してアルバム『Jack Johnson』『Live-Evil』に参加

エルビン・ジョーンズのバンドではデイブ・リーブマンとツイン・サックスで注目を集めた

チック・コリア ペトルチアニ グリフィン等と また たびたび来日して 日野皓正や菊池雅章とも共演した「野獣系ハードバッパー」とも「狂気をはらんだ阿鼻叫喚の咆哮」とも評されたグロスマン

こうして楽屋でくつろぐ姿を見る限り「ジャズ界の生ける神様」「テナーの猛者」を感じさせない ・・・わ、僕と同い年(当時24歳)なかなかのイケメンである

当夜のライブは 日野元彦(ds)トリオ 岡田勉(b) 渡辺香津美(g) @新宿 PIT INN

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#0048 1975年11月27日 沖至

沖至 ヨーロッパ幻想行 @日仏会館
19751127_0048g6r 前年(1974年)渡仏した沖至の帰国コンサート@日仏会館 “ヨーロッパ幻想行”

超アヴァンギャルド!「伝説のトランペッター沖至 from パリ」
1970年代、「演奏に蝶を飛ばす」と評されたミュージシャンがいる。

70年代の日本フリージャズシーンを代表するトランペッター「沖至」(おきいたる)
1941年兵庫県須磨生まれ。大阪工業大学卒業。ジャズ・トランペッター。スターダスターズ、峰厚介(ts)グループなどを経て、69年富樫雅彦ESSGに参加し注目される。

同年自己のグループを結成。70年に初リーダー作『殺人教室』をリリース。

1974年「アメリカでも、心あるミュージシャンっていうか、自分を偽りたくないアーチストは、みんな、ヨーロッパへのベクトルを持ってるよね」という言葉を残しパリに移住。

アルバムは86年『オペラ・ナイト』、96年『沖至6重奏団コンサート・ウイズ・ストリングス』、サニー・マレー(ds)らと共演の2001年『パリ往来』などがある。 現在もパリ在住。

上記テキストは いわき市のジャズ・ライブハウス”Queen”のマスター加藤さんのブログ<http://barqueen.exblog.jp>から引用させていただいた・・・この店にも行ってみたいなぁ

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2017/12/04

#0047 1975年11月20日 板橋文夫

1975年11月20日 板橋文夫@アケタの店
明田川荘之は オカリナを製造販売して演奏する 奇人変人天才アケタを自称する元々ジャズ・ピアニストで 西荻窪にアケタの店を経営するオーナーでもある

19751120_0047g5r 西荻の おかしな店行って おかしなピアニスト撮って来いと(僕が言ったんじゃないよ)SJ編集部に命じられた僕は この夜 怪しげなライブ・ハウスのドアをアケタ

鍵盤殴るわペダル蹴るわ ハダカ電球が吊るされたピアノに向かって汗だくで暴れまくってる男が 今度はでっかい鍋を振り回しながら 半狂乱でぶっ叩き始めた

丸で囲った「ア」が書かれた鍋は明らかにこの店の備品で こんなジャズもアリかよと ジャズ初心者の僕はアッ気にとられ 恐れをなした

おかしなピアニストは板橋文夫 ‘73年に渡辺貞夫グループに参加して 一躍ジャズファンの関心を集め 峰厚介 日野皓正をはじめ多くのグループやソロでも活躍していた

激戦かと思われたこの恐ろしい光景(この手のジャズ)は 激論ではあるが実は会話であって この日のメンバー 小山翔太(ds) と早川岳晴(b) との口角泡を飛ばす熱い議論ではないかと この夜気付かされた新米ジャズ・カメラマンでありました

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#0045 1975年11月19日 いソノてルヲ

いソノてルヲ:元米国大使館員 音楽評論家&ライターであり海外ミュージシャンを招聘したり コンサートの司会進行役を務めた

19751119_0045d6 自由ヶ丘のジャズ・クラブ ”5 SPOT” のオーナーであり ラジオDJの草分け的存在でもあった ご子息は国会議員の手塚よしお氏だが 磯野サザエさんとは関係がないらしい

話題のミュージシャンと対談して いソノさんが執筆する スイングジャーナル誌連載の “MY OPINION”のページのために この日 撮影を依頼されたのは レイ・ブライアント(p)のインタビュー

元大使館員だけあって 英語は流暢で 文筆家だけあって日本語も とても整った言いまわしで話をされる氏が 何故こんな平仮名カタカナ混ぜこぜの ややこしい芸名にされたのか 僕には理解できない 本名は磯野晃雄 この時初めてお会いしてから長くお付き合いいただいたが、1999年に68歳で亡くなられた。

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2017/12/02

#0043 1975年11月某日 サド・メル REC

サド・メルOrch. (フランク・フォスター) レコーディング@モーリStu
来日中のサド・メル楽団のレコーディングを取材撮影するため 目黒の毛利スタジオを訪ねた

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多人数の楽団を録るだけにスタジオは広く 指揮をとるサドを中心に 各セクションが大きな輪になって囲むようにセッティングされていた

広いスタジオ内の多人数をワンショットで撮れと言う編集部の命令に従って 僕は特殊なカメラを用意した

WIDELUX F8 はレンズが水平方向に140度スイングして通常のフレーム2コマ分に撮れるスーパーワイドアングルカメラ しかも超広角レンズのように画像の周辺が歪まない

そんな滅多に使わない高価な特殊カメラを僕が持ってる訳はなく プロ用機材レンタル屋で借りたんだけど このカメラ レンズのスイングがスムーズじゃなく現像したフィルムには細かい縦縞様のムラが多数入っていた

こんな整備不良のカメラにレンタル料は払えないとゴネた僕は使用料をタダにさせて 余計な経費を払いたくないケチな編集部に深く感謝されたのだった

思い切りクレームを言えたのは このレンタル屋が 僕の写真学校の同級生が経営していた店だったから

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